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飯盛山から
会津鶴ヶ城を望
会津白虎隊が自刃した場所から、鶴ヶ城を望む事ができる。
若き隊士らが、どんな思いで燃える城下町を眺め鶴ヶ城を見つめたのか。無念の涙が伝わってきます。 |
「戊辰戦争とは」
文久2年(1862年)、会津藩主・松平容保は京都守護職に就任し、尊皇攘夷派志士の取り締まりや禁門の変において幕府方の中核となった。こうした経緯もあり、薩摩藩・長州藩を中心とした明治新政府に徳川幕府方の首謀者として会津藩は、鳥羽・伏見の戦い後の慶応4年(1868年)、明治新政府から追討令を受ける。追討を命じられた仙台藩と米沢藩など東北諸藩は会津藩に同情的で、会津藩赦免の嘆願を行う一方、奥羽越列藩同盟を結成して結束を強めた。奥羽14藩では会議を開いて会津藩と庄内藩の赦免嘆願を目的として、明治新政府の九条総督に赦免嘆願書を提出したが、東征大総督府下参謀・林通顕による「会津は実々死謝を以ての外に之(こ)れなく」という基本方針は既に決定しており、朝廷へ直接建白を行う(太政官建白書)も認められることはなかった。奥羽越藩同盟の結成時点(白石会議)では赦免嘆願を目的としていたが、会津藩が明治新政府の通達に対して罪を認めず謝罪を拒否する回答書を示した事と、明治新政府の鎮撫使である世良修蔵が仙台藩士によって殺害された事件から戦争に傾くことになる。
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<飯盛山参道>
入り口, 飯盛山参拝への入り口に185段の階段が待ち構えております。上 まで登りきる途中で振り返ると会津平野が一望できます。
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<楽々参道>
階段を登る自信がない方は横 のスロープコンベアーを利用すれば山の中腹まで楽に登ることが出来ます!帰り道は、会津さざえ堂を通れば階段がありません。 |
<少年隊士>戊辰戦争で、16~17歳の少年たちで編成された白虎士中二番隊20人。戸の口堰の洞門をくぐり飯盛山に辿り着くが、鶴ヶ城が落城したと思いこみ、今は主君のために殉じよう」と、全員が自決した。 |
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<飯盛参道脇:とらぞう白虎隊の舞> |
<飯盛山自刃の地> |
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<白虎隊慰霊祭> |
<白虎隊19士霊像> |
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<飯盛山周辺路> |
<白虎隊が逃げ帰った>戸の口隧道 |
栄螺堂(さざえどう、さざいどう)は、江戸時代後期の東北~関東地方に見られた特異な建築様式の仏堂である。堂内は回廊となっており、順路に沿って三十三観音や百観音などが配置され堂内を進むだけで巡礼が叶うような構造となっている。仏教の礼法である右繞三匝(うにょうさんぞう)に基づいて、右回りに三回匝る(めぐる)ことで参拝できるようになっていることから、本来は三匝堂(さんそうどう)というが、螺旋構造や外観がサザエに似ていることから通称で「栄螺堂」、「サザエ堂」などと呼ばれる。
「大人の遠足」
◇今や団体旅行の年齢層は、年々高まっている。団塊の世代が、昔修学旅行した場所に再び訪れているからだ。添乗していますと、皆様方童心に戻って楽しんでいます。
まさに大人の遠足風情です。
●お問合せ:ander@ocn.wine.ne.jp
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